(C) Mizuno Enry  女王様と犬
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傍にいて…。
誰よりも…何よりも先に、ワタシを必要としていて…。






『月の印』






もうすぐ十二の歳を迎える月の出来事だった。





「…痛っ」

小さく苦痛の声をもらすと、ハナビは、弓なりに弧を描く眉を僅かに顰めた。
鈍い痛み。
鈍痛とでもいうのだろうか…。
耐えられない程の痛みではないけれど、少女の集中力を削ぐ程度には気になる痛みだ。
ハナビは、柔拳の構えをといて、頬にかかる前髪を鬱陶しそうにかき上げた。

「なんだろ? なんかお腹が気持ち悪い…」

唐突に始まった腹痛の原因に思い当たらず、ハナビは、煩わしげに痛む下腹部へ手をやった。
修行の際に、わき腹を打撲したわけではない。
さりとて、お腹を壊すような朝食を取った覚えもなかったのだが――。

「痛い…」

ハナビは、長い黒髪を揺らして、怪訝な面持ちで俯いた。
ドクン…ドクン…と、酷くまどろっこしいリズムでもって、全身の血が脈打っている感覚。
一旦気にしだすと、その鈍い痛みはますます強まってくるようだ。

「むう…こうも中途半端な痛みだと、イライラする――」

ハナビは、柔らかな頬を歪めて文句をつけた。
常であれば、鍛錬で火照った身体も、流した汗も、修行好きのハナビには、心地よく感じるものだった。
けれど、布が汗を吸って重く肌に張り付く感触は、今はただ不快感を増すばかりだ。
ハナビは、苛々と表情を曇らせ、額に浮かぶ汗を手の甲で拭った。
いっそ激しい激痛に見舞われた方が、医者に掛かるなどの対処のしようもあるのだが、それほどの苦痛ではないのだから始末に悪い。
腰の辺りが鉛のように重く、どうにもだるいという程度なのである。
ハナビは、落ち着かない様子で眉間にシワを寄せた。
下腹部の妙な感覚のせいで、一秒毎に気が滅入ってくる。

「今日の修行は、早めに切り上げて帰ろうかな…」

軽く肩を竦めたハナビは、諦めたように大きな溜息をひとつ吐き出した。
身体がダルイぐらいで、修行を休むような少女ではなかったが、午後には、久しぶりに姉のヒナタと外出する約束をしていた。
約束した時間までは、まだ間もあったのだが、体調管理も修業のうちである。

「姉上と出かけるのは、本当に暫くぶりだものね。こんな事で体調崩して、キャンセルになったら嫌だから…。うん、今日の修行は、終了!」

ハナビは、早々と気持ちを切り替えた。
中忍となってからのヒナタは、日々忙しく任務に追われて、滅多に休みをとる暇がなかった。
むろん、妹と遊ぶ時間もそう多くあるはずもない。
今週になって、ようやく買い物の約束を取り付けたハナビは、ヒナタと外出する日を、指折り数えて楽しみにしていたのである。
ハナビは、任務を終えて家で待っているだろう優しげな姉の眼差しを思い出しながら、軽やかな足取りで、クルリと身を翻した。
その――瞬間だった。
一歩踏み出したその先へ、ハナビは進めなくなっていた。
スウッと全身の血の気がひいていき、目の前の景色が白くなる。

「何? コレ…」

ハナビが、茫然と呟く間もなく、手足からも力が抜けていった。
そのままペタン…と力なく地面へ尻餅をつく。
こんな感覚に陥るのは初めての事だった。
立ち上がろうと四肢に命じているというのに、何故か力が入らない。
自分の身体に起きている変調に、当初、ハナビは気づかなかった。

「早く帰らなきゃ…。姉上が心配しちゃう」

ふらつく身体に戸惑いながらも、ハナビは、立ち上がろうと意識を集中した。
けれど、気が急くのとは反対に、手足は思うように動かなかった。

「……どうして…」

困惑して首を捻ったハナビは、不意にゾクリッと背筋を強張らせた。
身じろぎした拍子に、太腿の付け根の辺りで、生暖かいモノが伝うような違和感を覚える。
足下に視線を向けると、白く透き通るような少女の肌とは対照的な赤い鮮血。
――怪我を、したわけではない。
それにも関わらず、服の裾から覗く肌の上を、赤い筋が静かに流れ落ちている。

「何? …なんで…」

ハナビは、太腿を伝う赤い液体を見つめ、ほとんど意識もせず手を伸ばし指で擦った。
内腿をつたうヌルリ…とした感触。
味わった事のない違和感だった。
微かな鉄臭い匂いが、空気中に広がり、ハナビの鼻腔を刺激する。

「血? でも…どうしてこんな……」

ぼんやりと指先の血を眺めながら、不思議そうに眼を細めたハナビは、一拍おいて腹痛の原因に思い至った。
その途端、ハナビの身体が、凍りつく。

「まさか――月経血?」

脳裏に浮かんだ単語が、するりと口をついて出る。
言葉にして、ハナビは愕然とした。
初めて迎える女の印し。
すなわち、『初潮』だった。
初めての出来事に、ハナビはうろたえた。

「どうしよう……。…こんな所で…」

滅多な事では動揺しないハナビも、今回ばかりは、慌てずにはいられなかった。
動揺する心を必死に静めて、救助を要請するのに適当な人物を考えたが、冷静さを欠いた頭ではすぐには思いつかない。
これでは、買い物どころの騒ぎではなかった。
日向の屋敷に帰ろうにも動けない。
こんな不様な姿では、人に助けを呼ぶ事も叶わないではないか。

「なんで? よりにもよって、姉上と出掛ける約束をした日にくるのよ…」
  
この世の終わりがやってきたとばかりに、ハナビは、悲壮な面持ちで文句をつけた。
こんな姿を屋敷の者に見られるくらいなら、いっそこのまま動かずにいた方がマシなような気もしてくる。

「…でも、姉上がきっと心配しちゃう…。約束した時間までには帰らなくちゃ…」

ハナビは、キュッと口元を引き締め、不甲斐ない自身を叱咤した。
何でもいいから役立ちそうな物はないかと、ズボンのポケットをまさぐっていると、冷やりとした金属の表面が指先に触れる。
ハッと何かを思い出したハナビは、急いでポケットの中からソレを取り出した。 
飾り気のない筒状の笛が、手の中で太陽を反射してキラリと光る。

「キバの…犬笛……」

ハナビは、小さな声で呟いた。
丁寧に磨きこまれた犬笛の丸みを、そっと指でなぞる。
その犬笛は、大分前にキバから渡された品物だった。

『犬塚特製の犬笛だ。里の中にいれば、大概オレのトコまで伝わる。なんかあった時に吹けば、来てやるよ』

そう言って、五つ年上の彼は、色気もそっけもない小さな笛を、ハナビの手の中へ無造作に投げて寄越した。
もう少し別のプレゼントを期待していたハナビは、不満げに唇を尖らせたものだが、この犬笛があれば、いつでもキバを呼び出せるというのは、よくよく考えれば気分の良いものだった。
それはハナビが、十一歳になった春の日の出来事で――丁度、一年前の話である。
ちなみに、去年の誕生日に貰ってから、肌身離さず身に着けていたその犬笛は、まだ一度も吹かれた事はなかった。

『遊びで使うなよ』

そうキバに念押しされていたせいで、ハナビも今の今まで、すっかりこの犬笛の存在理由を失念していた。
ハナビとて、多少の事では、滅多に根をあげない性格の持ち主である。
余程の事でもなければ、使用するつもりのなかった道具だったが、今回に限っては別だった。
ハナビは、藁にも縋る思いで、犬笛をギュッと握り締めた。
特別にチャクラを練る必要もない。
ただ吹けばいい。
簡単な口寄せの術だった。

「……来て」

ハナビは、犬笛の端へ口付けるようにそっと唇を寄せた。

 ピィィィィ―――――ィ。

人の耳には聞こえない音階が、鋭く空気を切り裂き雲ひとつない空に響いた。

「コレ…ちゃんと音出てるのかな…」

一度だけ犬笛を吹いたハナビは、貧血で青ざめた頬を歪ませて、ポツリと不安な想いを零した。
空を仰ぎ見れば、青々とした晴天が広がっている。
三月に入って、ようやく冬の冷たい北風が去り、春めいた陽気が顔を覗かせていた。
そよそよと梢をわたる風が、汗ばんだ肌をやわらかく撫でていく。
時間だけが、妙に長く感じられた。
ジリジリと照りつける午後の太陽は、ハナビが逃げ込んだ木陰を、ゆっくりと侵食していった。

「はぁ…」

ハナビは、少しでも痛みの感覚を逃がす為に、意識してゆっくりと息を吐き出そうとした。
深呼吸を繰り返すと、多少痛みから気がそれたが、茹だるような暖かさに、呼吸をするのも億劫になる。
汗ばんだ身体が気持ち悪い。
下腹部の鈍痛は、シクシクと途切れる間もなく続いていた。

「キバ…遅いよ。早く来て…」

ハナビは、地面に力無くしゃがみこんだまま、心細げに愚痴をこぼした。
いつもは勝気な少女の肩が小刻みに震え、小さな嗚咽が咽喉を突いて漏れそうになる。

「キバのバカ…これでこなかったら、後でとっちめてやるんだから!」

ハナビは、力の入らない足を引き寄せて、今にも泣きだしそうな顔を隠すように両膝の間へうずめた。



* * *



助けを求める為に犬笛を吹いてから、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

「――ウォン!」

唐突に響く、力強い犬の鳴き声に、ハナビの肩がビクリと揺れた。

「いたか赤丸!? オイ! ハナビ!?」

ザザッと木の葉を揺らし、足音も荒く現れた主が、慣れ親しんだ声でハナビの名を呼ぶ。
大木の陰で、しどけなく座り込む少女の姿に、キバは素早く駆け寄った。

「大丈夫か!?」
 
キバの力強い腕が、茫然として動けずにいるハナビの身体を、躊躇う事無くグイッと抱き起こした。
 
「キバァ…遅いよ――」

ハナビも、小さく抗議の声をあげながら、夢中で腕を伸ばしてキバの胸にしがみつく。
よほど急いで来てくれたのだろう。
キバは、息を切らせて、勢いよくハナビの顔を覗き込んできた。

「どうした? 怪我をしたのか?」

無事を確認するかのように、ギラギラと鋭い視線が、ハナビの身体を隈なく一瞥する。
主人の背後に控えた赤丸も、その大きな身体を縮め、「クゥン…」と一声鳴いて心配そうにハナビを見つめていた。
ギュウッ…と、キバの暖かい胸の中に抱きしめられたハナビは、ホッと安堵の表情を浮かべた。

「……ううん。ケガは、してないの…」 

どこか気の抜けたハナビの返事に、キバの眉間が、戸惑ったように歪められた。

「何があった?」

キバの精悍な顔が、腕の中に抱えたハナビの眼をジッと覗き込む。
一見して、ハナビの身体に外傷はないようだった。
だが、その内部の損傷という場合もある。

「本当に、ケガじゃないよ。そんなヘマはしないもん。でも…ちょっと、動けなくなっちゃって…」

キバの鋭い視線から眼を逸らしたハナビは、語尾を濁すかのように呟く。

「じゃあ、何があったんだよ?」

問う声が、自然と厳しくなる。
キバの鋭い嗅覚は、空気中に漂うほんの微かな血の臭いを嗅ぎわけていた。
悪戯で犬笛を使ったわけではないのは、ハナビの不自然な様子から分かるのだが……。

「その…」

真剣な表情のキバを横目に、ハナビは、モジモジと言い辛そうに顔を赤らめた。

「ん?」
「……っう…その…なの」

先を促すキバに、ハナビは、利発な少女には珍しく言葉を詰らせていた。
助けを呼んだ手前、素直に答えてしまえばいいのかもしれなかったが、何といっても異性に説明し辛い内容である。

「だから、なんで――。本当に、怪我はねぇんだな?」

要領を得ない答えに、キバは苛々と問い返した。
ハナビは、思うように考えがまとまらず、プイッと怒ったように俯いてしまった。
動けない理由が理由だけに、遠まわしに伝えたとしても、ハナビが恥ずかしい思いをするのには変わりないのだ。

「なぁに、スネてんだよ? ったく。とりあえず立てよ。こんなトコに座り込んでたら、ケツが痛えだろ?」

キバは、ガリガリと頭を掻いて、ハナビの腕を引っ張って立たせようとした。

「あっ! ダメ!」

ハナビに激しく拒絶され、キバは、キョトンとする。 

「んだよ……?」
「だって…」

キバの疑問に応える声は、驚くほどか細く震えていた。
普段は勝気な瞳が、うっすらと涙で潤んでさえいる。
ハナビの泣きそうな雰囲気に、キバは再び困惑する。

「な…なんなんだよ急に?」

戸惑うキバに、ハナビは 肩を震わせて睨み付けた。

「…だって……、月の印が、きちゃったんだもん!」

意を決してハナビが告白する。
キバに知られてしまった――。
羞恥のあまりハナビは、ギュッと眼を閉じて、呆気にとられているキバの表情を、視界から閉め出した。
少女独特の白くきめ細かな肌が、見る見るうちに紅潮していく。

「………へ? ナニがきたって??」

聞きなれない単語に、思わずキバの口から間の抜けた声が漏れる。

「―――バカ! キバの鈍感! ハナビは『女』になったの!」

反応の鈍いキバの胸の中で、ハナビが非難の声をあげる。
見れば、ハナビのうずくまった地面に、点々と血の染みができていた。
鈍感なキバにも、ようやくハナビの異常は知れた。

「おまっ――」

流石のキバも、これには言葉を失った。

「あ――そ、そうか…うん。それじゃあ、な。しょうがないだろな…」

キバは、ギクシャクと不自然に上擦った声でしゃべりながら頷いた。
華奢な少女の肢体。
キバは、唐突に腕の中に抱くその頼りない柔肌の感触を意識した。
通常の人間よりも敏感な嗅覚を刺激する血の香り――。
ハナビの中に芽吹いた『女』の匂いに、キバの本能がクラリとする。





少女に訪れた生理現象。
この緊急事態の解決策は、出来るだけ早くハナビと同じ境遇を経験している同性の人間に任せる事だった。

「日向の屋敷に送ればいいか? ここからじゃ、ちっと遠いが、なんならヒナタを呼んでくるか?」

慌てたキバは、ハナビに劣らず顔を赤くさせていた。

「…家はイヤ…こんな姿、見られたくない…」

ハナビは、フルフルと首を振って弱々しく俯いてしまう。

「それじゃあ、どうすりゃ…」

キバは思わず頭を抱えた。

「傍にいて…」

ハナビは、キバの服をギュッと握り、甘えるように額を擦り付けた。

「傍にいるのはかまわねーけどよ。辛いんじゃないのか? その…色々と…」

眉根を寄せて気遣う瞳が、心配そうにハナビを覗き込む。
誰かを呼びに行く事もできたが、それよりも自分の家の方が近い。
犬塚は、女系家族である。
生理時期の女性が、どんなモノかキバにもだいたい想像がつく。
その時期の姉が、酷く億劫な様子で一日を過ごし、時折、彼女の性格からすると本当に珍しく心乱す姿を見知っていた。
いい意味では、開放的な家族。
キバからすれば、もう少し慎ましくして欲しい程度に大っぴらだった。
母か、姉がいれば、ハナビの面倒も見てくれるだろう。

「んじゃ、オレん家まで我慢しろ…な? 姉貴がいれば、ちゃんと処置の仕方も教えてくれるだろ」

キバは、そっとハナビの髪を撫でつけて、華奢な少女の肩を抱き寄せた。

「ヤダ! まだここにいる!」

ハナビは、涙を溜めた瞳で、拗ねたようにキバの眼を睨み返す。
情緒不安定なせいか、文句をいう口調にも、いつものような覇気がない。

「我侭いってる場合じゃねーだろが! 赤丸! 先に行け!」
「ワン!」

主人の意図を汲んだ忍犬は、この事態を家族に知らせるべく素晴らしい脚力で走り出す。

「ハナビ、もうちょっとだけ我慢しろな?」

キバは、ハナビの身体を両腕で軽々と抱き上げると、抗議する暇を与えずに赤丸の後を追った。


* * *



「……すみません。ご迷惑をおかけして…」

ハナビは、寝かされた布団の中から、申し訳なさそうに傍らに付き添う女性に声をかけた。
犬塚家に到着してすぐ、事情を聞いたキバの姉のハナは、ハナビを預かると手早く生理時の処置について説明し、布団を敷いて横になる事を勧めてくれた。

「気にしなくていいのよ。貴女ぐらいの年齢になれば、いつ来てもおかしくない事だからね」

ハナは、汚れた下着と服の変わりに、洗いたての清潔な衣服を手渡して安心させるようにニコリと微笑んだ。

「それより、もう起き上がって大丈夫? まだ辛いようなら、横になっていなさい」

初めての月経を迎え、衝撃を受けていたハナビを気遣う声は優しかった。

「いえ…もう、大丈夫です。知識では知っていたんですけど…さっきは、ビックリしちゃって……」

ハナビは、恥ずかしそうに肩をすぼめた。
身体を横にして休めたお陰で、眩暈はほとんどおさまってきていた。

「キバのヤツも、相当慌てていたのね。赤丸だけ先に寄越して、よく説明もせず、顔色変えてすっ飛んでくるもんだから、人間の怪我なら獣医じゃなく、病院に連れて行け! って、思わず怒鳴っちゃったわ」

ハナは、肩を竦めておどけてみせると、慌てる弟の姿を思い出して豪快に笑った。
ハナは、犬専門の獣医なのだそうだ。

「その…キバは…弟さんはどこに?」

先刻の慌しい一連の出来事を思い出して、ハナビは再び顔を赤らめた。

「ああ。キバなら、ひとっ走りお使いに出て貰ったわ。ご実家の方が心配しないように、私から…という事で伝言を頼んだの。大丈夫だったかしらね?」

気さくに微笑むハナに、ハナビは、コクリと頷いた。

「はい。ありがとうございます」

キバが伝令に走ったとなれば、まずは姉のヒナタの耳に入るだろう。
初潮を迎えた事を、家族に知られた気恥ずかしさで、ハナビの表情が微かに曇る。

「それにしても、うちのバカ弟が、貴女のような可愛いお嬢さんと面識があるなんてねえ…」

犬塚家の血の繋がりを色濃く感じさせる眼が、面白そうにニッと細められる。
日向一族の箱入り娘と、犬塚一族の若き中忍の組み合わせが意外だったのだろう。

「そろそろキバも帰ってくるだろうから、家まで送らせるわ。それまで、ゆっくり休んでいきなさい」

それ以上の詮索もせず、ハナは、ハナビの身体に布団をかけなおして、もう一眠りする事を勧めた。

「帰る頃には起こしてあげるから」

ニコリと笑うハナの瞳は、ハナビが慕う姉のヒナタのように、優しい眼差しをしている。

「はい…お言葉に甘えて…」

ハナビは、ハナの労わる声に、居心地の良さを感じて素直に頷いた。



* * *



「…ハナビ…」

優しく肩を揺すられ、心地よいまどろみから覚醒する。

「キバ?」

眠りから覚めたばかりのハナビは、ボンヤリとした表情で応えた。
いつのまに寝ていたのだろう。
キバの声に起こされるまで、夢も見ずに寝入ってしまっていた。

「ハナビ…。起きられるか?」

キバは、ハナビの身体を気遣うように、そっと声をかけた。

「ん……起きる」

ハナビは、寝ぼけ眼を手で擦った。
キバの姿を探して視線を動かすと、枕元の傍らで胡坐をかいて待っている。

「悪かったな迎えに来るのが遅くなって…。一応、ヒナタにだけ伝えといた。心配してたぞ」
「姉上…やっぱり心配してた?」

キバの言葉に、ハナビは見るからにシュンと気落ちした。

「ヒナタも、大概オマエに甘いからな〜」
 
キバは、苦笑しながら日向家の様子を伝えた。
事情を知ったヒナタが、キバの家まで着いてくるというのを押し止め、ハナビの帰りを待ってやってくれと説得したところ、
「じゃあ…コレだけでも…少しは体が楽になるから…。キバ君。ハナビをお願いね」
と、真剣な表情でヒナタに念をおされ、生理痛を緩和させる煎じ薬と、口直しの甘味を数種類持たされた。
 
「ったくよ〜すぐ帰るってのに、こんなに荷物持たせてどーすんだかな」

キバは、日向家から担いできた包みをチラリと眺め、呆れた口調でからかった。

「ヒナタから、よく効く痛み止めだってよ。飲めるか?」 

ハナビは、かけていた布団を剥いでノロノロと身体を起こした。

「うん…ありがとう」

ハナビは、キバに手を添えて貰いながら、湯飲みに注がれた苦そうな薬湯を、一息にクッと飲み込む。 

「……ニガァッ…」

口の中に広がるドロッとした薬湯のあまりの苦さに、眉根を寄せて非難の声をあげる。

「良薬は、なんとやら…だろ?」

ニオイも相当苦い香りがしてるのを分かっていて、キバは、ニヤリと憎らしく笑う。

「甘いの欲しい…」

ハナビは、早く苦味が消えないものかと、はしたなく舌先をチロリと出す。
体調が悪くとも、甘味は別らしい甘党なハナビの食欲に、キバは苦笑しながら包みを渡した。

「なんかいっぱいあるからよ。それ一個食ったら、残りは全部家に持って帰って食えよ」
「はぁい。あっバナナプリンがある〜v」

ヒナタが準備した菓子の中に、好物のバナナ系スイーツを見つけた途端、ハナビはコロリと機嫌を直して早々と手を伸ばした。

「あま〜いv」

ハナビは、ニコニコと満面の笑みを浮かべて、舌の先でトロリと蕩けるプリンを満足気に頬ばる。

「おーい、ハナビ。口の周りに、クリームつけてるぞ〜」

うっとりと目を細めて、バナナプリンの上にのった生クリームを、無心に舐めているハナビの頬を、キバは呆れたように突付いた。

「ん〜どこ?」

ハナビは、モゴモゴと齧っていたスプーンを唇から離し、さして気にも留めない様子で、キバに指摘された部分を指先で探る。

「ちげ〜よ、コッチ…」

ハナビの擦る位置が微妙にズレていて、唇の端についたままの生クリームを見たキバは、甲斐甲斐しく指を伸ばして拭ってやった。
拭う瞬間、キバの指がほんの少しハナビの唇に触れる。

一瞬の沈黙。

二人のいる空間に、ピリピリと静電気のようなモノが走る。
ハナビの唇が、微かに震えた。

「ほれっ、とれたぞ」

けれどキバの指は、茶化すように笑いながら、何事もなかったかのように離れていった。

「……ありがとう」

ハナビは、知らず止めていた息を吐き出す。

心臓がバクバクと鳴っている。
あのまま接吻をされるかと思った…。
ハナビの勘違い?
そう思うと、無性に腹が立ってくる。

「…また、ハナビを子供扱いする…」

むうっと眉根を寄せたハナビは、ボソリと不満の声をあげる。
和やかな雰囲気からから一変して、またしても、ハナビのご機嫌が斜めになっていく。
キバは、クシャクシャになったハナビの髪を、宥めるように優しく撫でて直してやった。
信頼されているとはいえ、いつまでも年頃の少女の傍に付き添うわけにもいかない。

「さてと、日が暮れる前に送っていくよ」

キバは、不満タラタラな表情を浮かべるハナビに気づかない様子で、帰宅を促した。

「ハナビ…そろそろ家に……? どうし…」

立ち上がろうとしたキバは、思わぬ抵抗にあい姿勢を崩した。

「とと…なんだよ、ハナビ」

見れば上着の袖口を、ハナビが掴んでいる。

「キバ。ハナビとの約束…覚えてる?」

俯き加減のハナビが、ポツリ…とキバに問いかける。

「あー? 約束?」

何の約束を指しているのか検討がつかず、キバは困惑して首を捻る。

「……って、あん時のか?」

ふと…キバは、ひとつの出来事を思い出して硬直する。

「うん…一人前の『女』になったお祝いは?」

そうだよ! と言わんばかりに、ハナビは長い髪を揺らして大きくコクリと頷く。

「え〜と、とりあえず……赤飯か?」

キバは、極めて一般常識的な回答をマジメに答えた。

「違うよ! そうじゃなくて、キス…しないの?」
「バーカ。病人が何言ってんだよ」

思い切ったハナビの問いを、キバは肩を竦めてさらりと流す。

「病気じゃないよ。知ってるくせに」

あくまでもそらっ惚けるキバの態度に、ハナビの機嫌は、拍車をかけて悪くなっていく。

「それでもだ。ほらっ、駄々こねてないで行くぞ」

反論しようと身構えたハナビを気にもせず、キバは、ここぞとばかりに兄貴風を吹かせた。
ついで、膨れっ面のハナビは、まるで癇癪をおこした子犬を宥めるように、ぽふぽふと頭を撫でられる。
もともと初めての生理で、精神的にイライラ・モヤモヤしていたせいか、ハナビの中で、ナニかがブチッと音をたてて切れた。

「ウソツキ…」

ハナビの唇から、ポロリとひとつの言葉が口をついてでる。

「そんでもって、トーヘンボク。甲斐性無し! 鈍感男!! ハナビにここまで言わせておいて、逃げるなんて卑怯者!」

怒りMAXになったハナビは、思いついた憎まれ口を次から次へと吐き出した。

「あんま、生意気な事言ってんなよ…」

完全にヘソを曲げてしまったハナビを前に、ほんの微かにキバの声が尖る。

「だって本当の事じゃない。…いつだってキバは、ハナビを子供としか見てないじゃない!」

子供扱いされる事を心底嫌がる少女は、目元を赤く染めて、激しく抗議する。
今にもハナビの潤んだ瞳から、涙が零れそうだった。
泣きそうになっているハナビに気が付いたキバは、大袈裟なほど大きな溜息を漏らした。

「…ったく、お前が怖がるだろうから、我慢してたってのに…。煽ったのはお前だかんな。どうなっても、知らねーぞ」

そして、その言葉の通り…ハナビの望んだ言葉の通りのモノを、キバは与えたのだった。



* * *



トンッと、軽くキバの手で肩を押されたと思ったら、いつの間にか布団の上に押し倒されていた。
夕闇の迫った寝室で、ハナビの身体に覆いかぶさるキバの表情が、陰になって読めない。
ただ、肌の触れた部分が酷く熱かった。

「もう…イヤだって言っても、遅せーからな」

ボソリと、どこか不本意そうな口調で低い声が呟く。

「え?」

怪訝そうに目を眇めたハナビだったが、いつものあっけらかんとしたキバの雰囲気と異なる気配に呑まれる。
キバの顔がゆっくりと、けれど有無を言う隙を与えずハナビの唇に覆いかぶさってきた。
先ほどの口論からすると拍子抜けするほど、唐突に訪れた接吻。
それは、噛み付かれるような荒々しい口付けだった。
お互いの唇が触れる感触を実感する間もなく、生暖かい濡れた舌先が口の中に侵入してくる。
驚愕と、戦慄。
ただその二文字が、ハナビの頭の中をグルグルと回った。
ハナビは、抵抗する事も忘れて、ただクラクラと眩暈がするほどの情熱に翻弄される。

「まってキバ…ふッ…い…きできな…んんッ!」

ハナビは、なんとか唇をずらして、酸素が足りないとキバに訴える。

「バカ…鼻で息しろ、鼻で…」
「だって、できな――んっ!」

文句を言う甘い唇を、キバは再び奪った。
ハナビに考える余裕など与えない。
この少女に捕まったが最後、そんな余裕など、キバはとっくに見失っているのだから。
お預けをくらっていたのはキバの方なのだ。
余裕のない自分を、無邪気に煽る少女への遠慮などなく、キバは、思うさまハナビを貪った。

「誘ったのは、オマエだろう? ハナビ…」

ほんの一瞬の息継ぎの合間、キバが唇の上でくすぐるように呟く。
ハナビは、至近距離のキバの眼を睨みつけようとしたが、ぽやんと霞のかかった瞳ではうまくいかなかった。
キバは、憎らしいほど余裕綽々の表情で不敵に笑う。

「ハッ…ハァッ…んんっ…」

文句など言えるはずもなく、まともな呼吸も出来ずに、ハナビは必死にキバの背中にしがみついた。



* * *



「…悔しい」

照れ隠しなのがバレバレの怒り顔。
プクリと頬を膨らませて、少女は大変ご立腹である。

「男が、舐められたまんまでいるわけねーだろ? ったく、さっきまで可愛く泣きべそかいてたのによ。我侭な女王様だな」

罪悪感の欠片もない様子で、いけしゃあしゃあと答える。

「なっ、泣いてないもん!」

充血して赤くなった眼を隠すように、慌てて目蓋を擦る。

「あ〜? 泣いてただろ?」

キバの顔に、ニヤリと意地の悪い笑みが浮かぶ。

「泣いてない! 泣いてないったら、泣いてないもん! キバのバカァ!」

どうやら…人よりも優位に立ちたがるハナビの気性ゆえか、この程度のキバのリードさえも許せないらしい。

「今に見てなさい! 今度は、絶対に負けないんだから!」

負けず嫌いの少女の宣言に、キバは肩をすくめる。

「ハイハイ、お好きなように…」

キバは、ハナビのご機嫌を損ねないように呟くと、嬉しいような複雑な苦笑を浮かべたのだった。













* * *



大変長らくお待たせしました…な、キバハナのお話です。
ネタ自体は、だいぶ前にできとったんですがね〜後半のエロ場面が書けなくて(苦笑)
相変わらず、ぬるい濡れ場…とも言えない代物です。
脳内では、あれやこれやらしてくれるんですが、水乃さんの文章力ではここまででやんす。
つか、さっさとアップしたかったんだい。
せめて、キバの誕生日にはアップしたかったんだ…作品ではまだ春だけど、季節はもう夏だし。
ズルズルと無駄に長くなってしまいましたが、久しぶりの更新なので大目にみたって下さいませ。
つー事で、キバハナ萌えのお方へこそこそと言い訳。

キバとハナビの関係は、普段『女王様と犬』な主従関係に近い力関係を保っているんですがね。
たまにこんな風にキバ犬が、立場逆転の下克上しちゃたりして、ハナビたんの可愛さ倍増みたいな感じに甘かったりします。
ハナビの意外な一面が見れる…それが、水乃さんの脳内妄想で活性化するキバハナ熱の原因。
いっそ本にまとめるかと〜とも思いましたが、イベント参加できるのはいつになるやら…(遠い眼)

そんなこんなで、バカップル万歳です。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。




水乃えんり 拝